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Blogger's Avatar  2009-10-19 19:37
 2つの学会発表は大きな支障もなく,無事に終了しました。まあ,学会前後はちょっと根を詰めすぎて体調を崩していましたが。なかなか強迫傾向はなくなることはないので,気がつくと身体を酷使しているという・・・まあこれがあるからそれなりに成果を上げられるんだと思っているから,自分を否定しているわけじゃないんだけど,自分のためにはもう少しバランスをとれるといいいなあという感じかな?日本心理臨床学会での発表は,今年で3年連続の3回目で,司会者の方の上手さもあって,発表内容も過剰に詰め込まずにちょうどいい感じにできたし,今までで最も建設的な議論が展開したという感想でした。とにかく,事例検討でも学会発表でも,自分が担当した事例を扱うのは,改めて事例を見直すことになるので勉強になりますね。
 そんな中でも,平行して自分の内的なプロセスも進行していて,学会発表が終わるまでは忙しさであまり本格的に取り組めなかった部分が,ここのところ強烈に動いてきているので,個人的に大変になってきてる。かなりプライベートな内容なので,具体的なことは書けないんだけど,やっぱりセラピストでもある自分の心の動きというのは,担当してる心理面接の動きと何か通じるところがあるなあと思ってるところ。ユングなどの深層心理学では,クライエントさんの無意識とセラピストの無意識を含めて,二人の間で心的プロセスが展開するという考え方をするけど,クライエントさんの心的内容を扱っているようでいて,それはセラピストの心的内容をも扱っている場合が出てくる。例えば,クライエントさんの病理的な部分は,セラピストの中にも潜在的(顕在的なこともある)にあるわけで,心理面接の場面ではセラピストの潜在的な病理を自覚しつながっていることが重要になることがある。この自覚がないと,面接が深まってくるとクライエントさんの病理なのかセラピストの中の病理なのかの区別がつきづらくなる。逆に,セラピスト自身の病理性を自覚して面接場面以外でそれをきちんと扱って変化が生まれると,クライエントさんの病理にも変化が生まれたりもする。
 セラピストは,基本的に心が健康でなければならない。それは確かにその通りなのだけれど,あまり健康すぎてもセラピストになるのは難しい。心の痛みを知らなければ,基本中の基本である共感でさえ危うい。クライエントさんの話を聴いて,セラピストが自分の心の痛みを話に持ち出すのはまずいけど,心の痛みを知らないセラピストがクライエントさんの心の痛みに寄り添えるのかと言えば,それは大きな疑問符がつくだろう。形だけの共感が,役に立たないどころか有害でさえあり得るということは,臨床家であれば十分に体験しているはずだ。しかし,クライエントさんの話を聴いて,セラピストが自身の中にある心の痛み(あるいは病理)に圧倒されてしまうのなら,それはセラピストである前に,クライエントとして自分の問題を扱っておかなければならない。それが,セラピストになる者にとっての倫理だと思う。もちろん,セラピストでも無意識の中にある心の痛みや病理性はなかなか見えない。だから,セラピストはクライエントさんの話を聴いていて生じてくる自分自身の微妙な心の動きに開かれていなくてはならないし,できるだけ前もって自分自身の心の痛みや病理性に気づいていることが重要になる。それに気づいているか気づいていないか,少なくとも深層心理学の分野では,それがカウンセリング/心理療法の成否の分水嶺となる。
 まあ,深層心理学を志向している人にとっては,当然の話とも言えるのだけれど,僕自身の内的プロセスが大きく見えてきているだけに,概念ではなく改めて実感を伴ってわかってきたという感じです。もちろん,自分の内的なプロセスは自分のものなのだけれど,そういう動きが生じていることを自覚しながらクライエントさんと会うことは必要だし,面接場面でクライエントさんとの間で生じていることが,セラピスト個人に影響を与えうることも自覚していなければならない。僕という個人と,セラピストである僕との間で,その両方で生じるプロセスを区別しうるのは,セラピストが育んだ自覚の力であるので,それをいかに身につけていくかというのが,技法だ何だという前にとても重要だということを,伝えておきたいなと思いました。

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